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アオヤギをバイ貝といってますがバカ貝の間違いです。けっこうこのチャンネル致命的な間違いが含まれてるのでご注意ください(汗)
私は深川1丁目に住んでいます。生まれも育ちも深川です。素晴らしい素敵な動画ありがとうございます。
清澄庭園、懐かしいです。小学校の遠足で行きました。私は、都立深川高校(旧 東京府立第七高等女学校)の卒業生です。都電にに乗って日本橋の三越、白木屋、高島屋デパートが遊び場でした。深川、いいですね。
第二次世界大戦中に浄心寺で生まれ育った者ですが、今は海外移住しています。現在は代が代わり深川には誰も住んでいません。生粋の江戸っ子も昔話になってしまいましたが、地元に住んでいても知らないことはたくさんありますね。いろいろな歴史を聞かせていただいてありがとうございます。
とても勉強になります。ありがとうございます。幼少、霊巌寺幼稚園、元加賀小、深川六中まで育った故郷から引越し。オッサンになりアート、カフェへ変遷していく街に魅力を感じ35年経て我慢できず逆戻り6年、未だ浦島太郎。野良猫と戯れ空地にまさかの美術館。ウォーホルも所蔵されてる。あの材木屋は某カフェ、公園化された運河、、ノスタルジーと新発見が交差する生活楽しんでます。
このエリアはなかなか風情があっていいですね。一言で下町といいますが川ぞいに歩くと大きな公園があったりと、予想外の展開になりそうです。
いつも楽しく見てます!青柳、ばい貝で無くばか貝です。
歴史のある街の割には知らずに過ごしてきました。10年ほど前に現代美術館に行った際に初めて降り立ち、綺麗な街並みと地名、それに濃密な江戸情緒に圧倒されて強烈に印象づいた街となりました。
清澄庭園(社交場跡)は廃藩置県迄は関戸藩等々(大名屋敷名の松平定信の白河藩)の大名下屋敷跡を目の当たりに魅了された清澄庭園を薩摩藩の下級武士の岩崎弥太郎が買い受けておりました(他に明暦、震災で残った佐賀の長屋を資料館移築)。以後に寄贈しております。清澄白河~富岡~東京市東陽町一帯(少し掘れば貝殻で埋められて居る事が解り、牡丹町等々の埋めた時期に紀州(8代将軍の吉宗の頃)の紀伊國屋文左衛門が関わっております。洲崎方面の先の殆んどは埋立地(東陽町は男性の遊戯場、昭和パラダイス跡)です)は江戸時代から昭和50年代迄は「深川っ子(地元愛が強く江戸っ子とは言わない。田舎より来て子供が誕生した人達は東京人?都会人と言いますね)」の深川漁業組合が継続された程に代々が漁師町でした。名物の深川丼のアサリなどは目の前の江戸湾(後の東京湾)で採取です。町興しとして、平屋当時の茶屋女(茶汲み女)が芸事を教わって二階屋にし辰巳芸者の誕生でしたが、江戸幕府の公認が吉原のみでしたので「辰巳芸者は鶴吉などの男性名を名乗って」おりました。富岡八幡宮(言葉は異なっても神社と同意味です)の祭事で特徴的なお神輿に「八つ棟御輿は深川と浦安のみに後藤重光の傑作(江戸時代よりです)」のお神輿です。数年前から伊能忠敬(大日本沿海興知全国の測量家)がご座居ますが、伊能忠敬は佐原藩の村長で優秀でしたが貧乏な暮らしでしたが、飢饉等の際には備蓄米を村人に公平に分かち合った方で51歳で隠居した後に、江戸の測量家の高橋至時(15歳下の方です)に5年で学んだ際に江戸幕府の命令で測量する為に人生を全うした生き方は素晴らしいですね。 当時の平均寿命は40歳前後でしたが、年齢に拘らず15歳下の測量家に素直に学び、自分の可能性を持ち続け乍、自分と言う環境と闘い続け、後世に残した偉業(目的)を達成した姿勢には中々、出来無い事です。行き違いの切はご容赦下さいませ。本所亀沢町7代末孫
久々に東京下町の古今の風景を有難う御座いました。予告の浅草吉原方面もお忘れなく!
そうなんですよね・・台本は一部できてるのですが急ぎます!!
情報満載で楽しめました。これからも宜しくお願い致します。
今回も息を止めてジッと拝見しました。テンポの良い語り口がとても好きです。両親が息災の頃は、帰省する度に必ず高橋の「どぜう伊せ喜」で大盤振る舞いしてもらう(笑)のが慣行でした。清澄庭園と江戸資料館はそのコースでした。その伊せ喜も今や閉店し、粋でいなせだった店舗はマンションになって久しいそうです・・・(寂)門前仲町宜しくお願いします。出来れば森下高橋小名木川周辺も。
森下は以前弟が住んでましてよく行きました。森下の焼肉屋で黒柳徹子をみたのですが、あのままでした・・・
清洲橋の近くに仕事場があったので、懐かしく拝見しました。昼休みに散歩した風景が映っていました。この辺り相撲部屋いくつかあるんですよ。
コンビニとかいくと普通にお相撲さんがレジに並んでますね。
清澄と白河は合併していないですよ。あくまでも駅名が清澄白河となっているだけで、地名は清澄と白河で別々です。
清澄白河は以前サラリーマンをやってた時に、同僚が住んでて勧められた事もあり、都内で住むことを検討していた候補地の一つでした。都心に近くて下町情緒があり、深川めしや倉庫街のカフェ、富岡八幡宮や清澄庭園といった観光資源にも恵まれてる上、錦糸町やスカイツリーにも近い、これ以上無いような場所でしたが、退職して独立、地元に戻ったため実現しませんでした。もしまた都内に住む機会があれば間違いなく第一候補の街ですね。
唯一の欠点は南北に走る鉄道交通施設がないことですよね。ここほど東京と江戸の双方を味わうことのできる土地もない。
@@hymn13 北へは半蔵門線で錦糸町が近くなったのは便利ですね。豊洲へは確かに不便ですね。最近、隣の住吉から豊洲へのルートが決まりましたので実現すると少しは便利になるのでは無いでしょうか?
確かに住むには良い場所です。江戸期では井戸水が悪く、住民は隅田川に来る水売り船の水を買ってたとか・・・
@@ojmm ありがとうございます。浅草から深川あたりまでの地域は本当の意味で下町(海外の街で言うところの「旧市街」)だと思いますね。最近は23区東部をひっくるめて下町と呼ぶ人が多いですが、歴史を辿るとよくわかりますよね。
@@ojmm 確かに江戸市中の井戸水は水道ですからね、季節によってはずいぶん臭い時などもあったかもしれませんね。深川江戸資料館と中川船番所が小規模ですが結構好きです。
ステキなナレーションにステキな動画、ありがとうございます!江戸の町を思いながら、散歩してみたくなりました。第2弾も楽しみです。
20~25歳頃まで清澄三丁目に住んでいました(昭和時代)すぐ近所に大鵬部屋があり大鵬親方がよく車を洗車してるのを見かけました。お会いした事はありませんが、近所の中華店に歌手の岩崎宏美さんがよく来られてたそうです。実家がたしか材木問屋関係だったと思います。青春時代を過ごした町なので、とても懐かしく拝見させて頂きました。
岩崎宏美さんは深川の材木機械の輸入販売をする会社の娘だそうですね!
2つの街に接しているから駅の名前が清澄白河なだけで、清澄と白河は合併していないと思います
私は大阪出身で清澄白河駅の近くに住んでいますが、この辺が地元の人にとっては清澄白河という呼び名はただの駅名に過ぎないらしいですね。「地元は清澄白河」ではなく「地元は深川」と言う誇りがあるとか。
おっしゃる通り、地元は清澄白河などとは言いませんね。白河町とか平野町とかの旧深川区由来の地名で言いますね。門前仲町を門仲というと他県出身者。地元は単に仲町と言いますね。
知り合いの出身が清澄白河で、深川のあたりってぼんやり何があるのかと知らなかったけど…なるほど
紀長伸銅所の工場と煙突があったの覚えてる。昭和末期に近隣の浅草今半の工場でバイトしてました。
門仲に住んでいるのでとても勉強になりました!と言ってもあと2ヶ月で東京から引っ越す予定ですが😢
現在の深川図書館は昭和3年当時の建物ではなく、平成5年にリニューアルしています。それっぽい雰囲気の建物ですが…(一部旧材も利用しているそうですが)古くからの建築物ではありません。ちょっと気になってしまったので…コメントしました。
大江戸線開通時に古石場に住んでいました。休日に自転車で深川エリアを散策していましたが当時は清澄庭園くらいしか印象に残っていませんでしたが、最近はお洒落なカフェが何店舗もでき変わったなと感じています。
◆昭和40年深川生まれ。当時の自宅は浄心寺裏にあるコウバ社宅で 通ったのは白河小学校。小3の2学期まで住んでいた場所。幼少期の体験は自己形成に多大な影響を受けると云われるほどに深川は自分の原点。浄心寺は幼稚園のころくらいまでの格好の遊び場。境内にはいると 真っ白くて大福を二個かさねたようなカタチの関東大震災慰霊塔があります。ぼくと幼馴染のヒロちゃんはこの塔を「オッパイ山」と呼んでいて塔の足元に転がってる石をひっくり返してダンゴムシをしこたま採集したり「オッパイ山」のてっぺんまでよじ登り 当時流行ったアニメの歌を口ずさんでいたことを思い出します。今思うと なんとバチアタリなコトをしてたのかと反省することしきりなんですがね。で 小学校にあがると放課後 家に帰りランドセルをちゃぶ台にぶん投げ ともだちが待ってる清澄庭園まで大急ぎ。当時の清澄庭園は 誰でも無料で入場できたこともあり ぼくらチビッ子の格好の遊び場だったんですわ。とかく都会っ子は田舎をまったく知らずに育つもんですがぼくらチビッ子にとっての清澄庭園はギュッと凝縮された里山のようでもあり。春は 広場のサクラでお花見 飛石の間に潜んでるタニシにちょっかいだしたり夏は セミやオニヤンマを追っかけまわし秋は 図書館裏手の林でモミジの葉っぱあつめ冬は 池の氷にそっと乗ってみたり とか。......清澄庭園は四季折々の日本の原風景にドップリ浸らせてくれていたんですよね 今考えると。( ΦωΦ)。。。しみぢみ
私は、2年前に、平野2丁目に住んでましたね。住みやすいよい街ですよ。マンション売ったら、凄い高価買い取りしてもらいました。
素晴らしいです
門前仲町もお願い致します!
寅さんの名所葛飾区柴又もお願いします!
らじゃーです^^
白川藩は白川天皇に由来するのですか?教えてください。とても楽しい動画ありがとうございます😆💕✨
白河藩の白河は現在の福島県白河市にありますが、白河の関で昔というか平安時代以前からあります。ちょっと調べてみましたが名前の由来はわかりませんでした・・
早速ご丁寧にありがとうございました。
白河の名前の由来ですが、白河藩主の松平定信の墓所が白河1丁目の霊巌寺にあるかららしいです。
失礼ながら、ばい貝は巻き貝、青柳は2枚貝で違います。青柳はたくさん取れてバカ貝という別名も。。。
アオヤギとバイ貝は違うのでは?
またやってしまいました。貝の種類自体が違います。バカ貝です・・・汗 自分がバカでした
私の母親の実家があって子供の頃にしょちゅう行かされました。その頃は「大鵬関全盛期」でして、所属の「二所ノ関部屋」が清澄二丁目にあった関係で、深川の旦那衆や清澄の職人たちは殆ど「大鵬関」のタニマチでした。その頃は清澄町も白河町ともに交通の不便な地で、都電は覚えてないですが、アキバから都バスで行ってました。なぜか白河町って清澄町の人間から見ると「格下」扱いでしたが、清澄町の子供は「白川小学校」に通ってました。子供っていっても汚い顔して鼻を垂らしていたのばっかしです。小名木川もクラゲばっかり。「ゼロメートル地帯」と言う言葉はなくなったのかな。
別に清澄と白河合併して無くね?(笑)
音楽が騒がしくて落ち着いてみていられません。折角良い動画なのに残念です。
アオヤギをバイ貝といってますがバカ貝の間違いです。けっこうこのチャンネル致命的な間違いが含まれてるのでご注意ください(汗)
私は深川1丁目に住んでいます。生まれも育ちも深川です。素晴らしい素敵な動画ありがとうございます。
清澄庭園、懐かしいです。小学校の遠足で行きました。私は、都立深川高校(旧 東京府立第七高等女学校)の
卒業生です。都電にに乗って日本橋の三越、白木屋、高島屋デパートが遊び場でした。深川、いいですね。
第二次世界大戦中に浄心寺で生まれ育った者ですが、今は海外移住しています。現在は代が代わり深川には誰も住んでいません。生粋の江戸っ子も昔話になってしまいましたが、地元に住んでいても知らないことはたくさんありますね。いろいろな歴史を聞かせていただいてありがとうございます。
とても勉強になります。ありがとうございます。幼少、霊巌寺幼稚園、元加賀小、深川六中まで育った故郷から引越し。オッサンになりアート、カフェへ変遷していく街に魅力を感じ35年経て我慢できず逆戻り6年、未だ浦島太郎。野良猫と戯れ空地にまさかの美術館。ウォーホルも所蔵されてる。あの材木屋は某カフェ、公園化された運河、、ノスタルジーと新発見が交差する生活楽しんでます。
このエリアはなかなか風情があっていいですね。一言で下町といいますが川ぞいに歩くと大きな公園があったりと、予想外の展開になりそうです。
いつも楽しく見てます!
青柳、ばい貝で無くばか貝です。
歴史のある街の割には知らずに過ごしてきました。10年ほど前に現代美術館に行った際に初めて降り立ち、綺麗な街並みと地名、
それに濃密な江戸情緒に圧倒されて強烈に印象づいた街となりました。
清澄庭園(社交場跡)は廃藩置県迄は関戸藩等々(大名屋敷名の松平定信の白河藩)の大名下屋敷跡を目の当たりに魅了された清澄庭園を薩摩藩の下級武士の岩崎弥太郎が買い受けておりました(他に明暦、震災で残った佐賀の長屋を資料館移築)。以後に寄贈しております。清澄白河~富岡~東京市東陽町一帯(少し掘れば貝殻で埋められて居る事が解り、牡丹町等々の埋めた時期に紀州(8代将軍の吉宗の頃)の紀伊國屋文左衛門が関わっております。洲崎方面の先の殆んどは埋立地(東陽町は男性の遊戯場、昭和パラダイス跡)です)は江戸時代から昭和50年代迄は「深川っ子(地元愛が強く江戸っ子とは言わない。田舎より来て子供が誕生した人達は東京人?都会人と言いますね)」の深川漁業組合が継続された程に代々が漁師町でした。名物の深川丼のアサリなどは目の前の江戸湾(後の東京湾)で採取です。町興しとして、平屋当時の茶屋女(茶汲み女)が芸事を教わって二階屋にし辰巳芸者の誕生でしたが、江戸幕府の公認が吉原のみでしたので「辰巳芸者は鶴吉などの男性名を名乗って」おりました。富岡八幡宮(言葉は異なっても神社と同意味です)の祭事で特徴的なお神輿に「八つ棟御輿は深川と浦安のみに後藤重光の傑作(江戸時代よりです)」のお神輿です。数年前から伊能忠敬(大日本沿海興知全国の測量家)がご座居ますが、伊能忠敬は佐原藩の村長で優秀でしたが貧乏な暮らしでしたが、飢饉等の際には備蓄米を村人に公平に分かち合った方で51歳で隠居した後に、江戸の測量家の高橋至時(15歳下の方です)に5年で学んだ際に江戸幕府の命令で測量する為に人生を全うした生き方は素晴らしいですね。 当時の平均寿命は40歳前後でしたが、年齢に拘らず15歳下の測量家に素直に学び、自分の可能性を持ち続け乍、自分と言う環境と闘い続け、後世に残した偉業(目的)を達成した姿勢には中々、出来無い事です。行き違いの切はご容赦下さいませ。本所亀沢町7代末孫
久々に東京下町の古今の風景を有難う御座いました。予告の浅草吉原方面もお忘れなく!
そうなんですよね・・台本は一部できてるのですが急ぎます!!
情報満載で楽しめました。これからも宜しくお願い致します。
今回も息を止めてジッと拝見しました。テンポの良い語り口がとても好きです。
両親が息災の頃は、帰省する度に必ず高橋の「どぜう伊せ喜」で大盤振る舞いしてもらう(笑)のが慣行でした。清澄庭園と江戸資料館はそのコースでした。その伊せ喜も今や閉店し、粋でいなせだった店舗はマンションになって久しいそうです・・・(寂)
門前仲町宜しくお願いします。出来れば森下高橋小名木川周辺も。
森下は以前弟が住んでましてよく行きました。森下の焼肉屋で黒柳徹子をみたのですが、あのままでした・・・
清洲橋の近くに仕事場があったので、懐かしく拝見しました。
昼休みに散歩した風景が映っていました。この辺り相撲部屋いくつかあるんですよ。
コンビニとかいくと普通にお相撲さんがレジに並んでますね。
清澄と白河は合併していないですよ。あくまでも駅名が清澄白河となっているだけで、地名は清澄と白河で別々です。
清澄白河は以前サラリーマンをやってた時に、同僚が住んでて勧められた事もあり、都内で住むことを検討していた候補地の一つでした。都心に近くて下町情緒があり、深川めしや倉庫街のカフェ、富岡八幡宮や清澄庭園といった観光資源にも恵まれてる上、錦糸町やスカイツリーにも近い、これ以上無いような場所でしたが、退職して独立、地元に戻ったため実現しませんでした。もしまた都内に住む機会があれば間違いなく第一候補の街ですね。
唯一の欠点は南北に走る鉄道交通施設がないことですよね。
ここほど東京と江戸の双方を味わうことのできる土地もない。
@@hymn13 北へは半蔵門線で錦糸町が近くなったのは便利ですね。豊洲へは確かに不便ですね。最近、隣の住吉から豊洲へのルートが決まりましたので実現すると少しは便利になるのでは無いでしょうか?
確かに住むには良い場所です。江戸期では井戸水が悪く、住民は隅田川に来る水売り船の水を買ってたとか・・・
@@ojmm ありがとうございます。浅草から深川あたりまでの地域は本当の意味で下町(海外の街で言うところの「旧市街」)だと思いますね。最近は23区東部をひっくるめて下町と呼ぶ人が多いですが、歴史を辿るとよくわかりますよね。
@@ojmm 確かに江戸市中の井戸水は水道ですからね、季節によってはずいぶん臭い時などもあったかもしれませんね。
深川江戸資料館と中川船番所が小規模ですが結構好きです。
ステキなナレーションにステキな動画、ありがとうございます!
江戸の町を思いながら、散歩してみたくなりました。
第2弾も楽しみです。
20~25歳頃まで清澄三丁目に住んでいました(昭和時代)
すぐ近所に大鵬部屋があり大鵬親方がよく車を洗車してるのを見かけました。
お会いした事はありませんが、近所の中華店に歌手の岩崎宏美さんが
よく来られてたそうです。実家がたしか材木問屋関係だったと思います。
青春時代を過ごした町なので、とても懐かしく拝見させて頂きました。
岩崎宏美さんは深川の材木機械の輸入販売をする会社の娘だそうですね!
2つの街に接しているから駅の名前が清澄白河なだけで、清澄と白河は合併していないと思います
私は大阪出身で清澄白河駅の近くに住んでいますが、この辺が地元の人にとっては清澄白河という呼び名はただの駅名に過ぎないらしいですね。「地元は清澄白河」ではなく「地元は深川」と言う誇りがあるとか。
おっしゃる通り、地元は清澄白河などとは言いませんね。白河町とか平野町とかの旧深川区由来の地名で言いますね。
門前仲町を門仲というと他県出身者。地元は単に仲町と言いますね。
知り合いの出身が清澄白河で、深川のあたりってぼんやり何があるのかと知らなかったけど…なるほど
紀長伸銅所の工場と煙突があったの覚えてる。昭和末期に近隣の浅草今半の工場でバイトしてました。
門仲に住んでいるのでとても勉強になりました!と言ってもあと2ヶ月で東京から引っ越す予定ですが😢
現在の深川図書館は昭和3年当時の建物ではなく、平成5年にリニューアルしています。
それっぽい雰囲気の建物ですが…(一部旧材も利用しているそうですが)古くからの建築物ではありません。
ちょっと気になってしまったので…コメントしました。
大江戸線開通時に古石場に住んでいました。休日に自転車で深川エリアを散策していましたが
当時は清澄庭園くらいしか印象に残っていませんでしたが、最近はお洒落なカフェが何店舗もでき変わったなと感じています。
◆昭和40年深川生まれ。
当時の自宅は浄心寺裏にあるコウバ社宅で 通ったのは白河小学校。小3の2学期まで住んでいた場所。
幼少期の体験は自己形成に多大な影響を受けると云われるほどに深川は自分の原点。
浄心寺は幼稚園のころくらいまでの格好の遊び場。
境内にはいると 真っ白くて大福を二個かさねたようなカタチの関東大震災慰霊塔があります。
ぼくと幼馴染のヒロちゃんはこの塔を「オッパイ山」と呼んでいて
塔の足元に転がってる石をひっくり返してダンゴムシをしこたま採集したり
「オッパイ山」のてっぺんまでよじ登り 当時流行ったアニメの歌を口ずさんでいたことを思い出します。
今思うと なんとバチアタリなコトをしてたのかと反省することしきりなんですがね。
で 小学校にあがると
放課後 家に帰りランドセルをちゃぶ台にぶん投げ ともだちが待ってる清澄庭園まで大急ぎ。
当時の清澄庭園は 誰でも無料で入場できたこともあり ぼくらチビッ子の格好の遊び場だったんですわ。
とかく都会っ子は田舎をまったく知らずに育つもんですが
ぼくらチビッ子にとっての清澄庭園はギュッと凝縮された里山のようでもあり。
春は 広場のサクラでお花見 飛石の間に潜んでるタニシにちょっかいだしたり
夏は セミやオニヤンマを追っかけまわし
秋は 図書館裏手の林でモミジの葉っぱあつめ
冬は 池の氷にそっと乗ってみたり とか。
......清澄庭園は四季折々の日本の原風景に
ドップリ浸らせてくれていたんですよね 今考えると。
( ΦωΦ)。。。しみぢみ
私は、2年前に、平野2丁目に住んでましたね。
住みやすいよい街ですよ。
マンション売ったら、凄い高価買い取りしてもらいました。
素晴らしいです
門前仲町もお願い致します!
寅さんの名所葛飾区柴又もお願いします!
らじゃーです^^
白川藩は白川天皇に由来するのですか?教えてください。とても楽しい動画ありがとうございます😆💕✨
白河藩の白河は現在の福島県白河市にありますが、白河の関で昔というか平安時代以前からあります。ちょっと調べてみましたが名前の由来はわかりませんでした・・
早速ご丁寧にありがとうございました。
白河の名前の由来ですが、白河藩主の松平定信の墓所が白河1丁目の霊巌寺にあるかららしいです。
失礼ながら、ばい貝は巻き貝、青柳は2枚貝で違います。
青柳はたくさん取れてバカ貝という別名も。。。
アオヤギとバイ貝は違うのでは?
またやってしまいました。貝の種類自体が違います。バカ貝です・・・汗 自分がバカでした
私の母親の実家があって子供の頃にしょちゅう行かされました。その頃は「大鵬関全盛期」でして、所属の「二所ノ関部屋」が清澄二丁目にあった関係で、深川の旦那衆や清澄の職人たちは殆ど「大鵬関」のタニマチでした。その頃は清澄町も白河町ともに交通の不便な地で、都電は覚えてないですが、アキバから都バスで行ってました。
なぜか白河町って清澄町の人間から見ると「格下」扱いでしたが、清澄町の子供は「白川小学校」に通ってました。子供っていっても汚い顔して鼻を垂らしていたのばっかしです。小名木川もクラゲばっかり。
「ゼロメートル地帯」と言う言葉はなくなったのかな。
別に清澄と白河合併して無くね?(笑)
音楽が騒がしくて落ち着いてみていられません。折角良い動画なのに残念です。